レポート  ・西米良村の歴史と邑校商社   
 
− 西米良村の歴史と邑校商社 −
宮崎県西米良村(にしめらそん)は、宮崎県の西部の九州山地の山中に位置する村で人口約 1,200人。宮崎県内で最も総人口の少ない自治体です。
  
米良(めら)氏は、南北朝時代(1336〜1392年)に南朝方につき、敗れた後、九州山地の肥後国米良郡米良山(めらやま、現在の宮崎県西米良村地方)に逃れた名族菊池氏の末裔です。江戸中期以降は、肥後国米良の中心地小川に館を構え、明治維新後に菊池氏に改姓しました。
  
米良山は元和年間(1615〜1624年)に人吉藩の属地とされます。米良氏は徳川家康より米良山が鷹巣山に指定されたことが縁で召し出され、交代寄合衆となりました。交代寄合は、江戸幕府における旗本の家格の一つで、江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行うのでそう呼ばれました。
  
交代寄合は石高3千石以上とされ、幕末期には33家あったそうですが、米良氏は無高でした。山中の米良山では米は収穫できず、材木・茶・椎茸などが収入源だったのです。5年に一度参府しましたが、江戸屋敷も持たず人吉藩江戸屋敷に寄居しました。幕府の諸儀礼にも参列せずに1〜2ヶ月で帰山したといわれます[1]
  
明治5年(1871年)の廃藩置県により人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となりますが、翌年に美々津県(宮崎県の前身)に移管されました。これは、美々津県に管轄替えをして欲しいという嘆願書が米良山住民より八代県宛に出され、それが認められたことによるものでした。
  
そのなかで注目されるのが、米良山では村民教育のために『邑学校』(邑はムラと読む)を開き、学校経営費用を捻出するために『邑校商社』を設立していて、美々津県に管轄替え後もそれらが存続されることを求めていることです[2]
  
『邑校商社』では、村民が村有地内に杉・檜などの諸木を植え、材木の売却代金を学校経営の財源として商社へ拠出することになっていました。まだ、明治政府が学校設立を行っていない時期に、です。旧領主菊池氏と米良山住民が江戸時代に作った学校のシステムは、経営の視点を持っていたわけです
  
米良山14村は、明治22年(1889年)の町村合併により、西米良村と東米良村にまとめられ、その後、東米良村は昭和37年(1962年)に西都市へ吸収合併されました。一方、西米良村は、平成の大合併の中でも一村自立をめざし、今日に至っています。
  
千葉市と同じ広さだけれど、森林が96%を占める土地にわずか 1,200人が暮らす西米良村。落人の秘境を彷彿とさせるようなところですが、過疎克服の村として注目を集めています。
  
(1)『西米良型ワーキングホリデー制度』(農家の農作業を手伝うことによって小額の報酬をもらい滞在費をほとんどかけずに村に滞在して観光ができるしくみ)を導入し、交流人口拡大、人手不足解消。(2)地元住民協議会が運営する『おがわ作小屋村』の年間来客数は約2万人。(3)全国平均(1.4)を上回る出生率2.2を実現。
  
『貧しさに耐えながらも文武を怠らず、礼節を重んじ、国家社会に尽くす』とした菊池氏時代の教え、そして明治初期に見られた米良山住民の自立精神が、現在もなお引き継がれているのだな、と思われてきます。
 
つぎの旅行記があります。
  旅行記 ・西米良村をたずねて − 宮崎県児湯郡
  
【参考にしたサイト】
[1] 宮崎公立大学学術情報リポジトリ、大賀郁夫著『交代寄合米良氏と人吉藩』
  (宮崎公立大学人文学部紀要22巻1号抄録)
[2] みやざきの近代を読む(明治時代はじめの宮崎5 〜 米良山住民の願い
  

  2016.07.06
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