レポート  ・ナイチンゲールと統計学   
−ナイチンゲールと統計学 −
あまりに有名な事柄や強いイメージのために、それが壁となって実像やほかの側面が見えにくいということは往々にしてあり得ることです。『ナイチンゲールと統計学』というこの話しもその一例と言えるでしょう。クリミア戦争で『白衣の天使』として活躍したフローレンス・ナイチンゲールが、近代統計学の発展に貢献した統計学者だったことをご存知でしょうか?
 
看護のことについてちょっと知りたいことがあったので、ナイチンゲールを調べていてそのことを知りました。つい最近のことです。仕事がら生産管理や品質管理などで統計学とまんざら無縁というわけでなかったので、そのことは驚きでした。
 
イギリスの上流階級の裕福な家庭に、二人娘の次女として生まれたナイチンゲールは、フランス語、ドイツ語、イタリア語、歴史、哲学など、社交界の貴婦人にふさわしいとみなされる以上の教育を父親から与えられます。20歳のときには、数学を勉強したいと言い出し、20代半ばになると、看護婦の仕事に興味を持ち始めます。そして、看護婦を志して10数年後の34歳のとき、戦場における女性による初めての看護団を率いてクリミア戦争のスクタリ野戦病院の臨床現場に立つのです。
 

フローレンス・ナイチンゲール

Nightingale・Florence(1820〜1910年)
イギリスの看護婦
近代的看護技術の開拓者
近代統計学の発展に貢献
英国統計学会会員
米国統計学会名誉会員
著作多数
 
■芽生え
1820年 0歳 両親の新婚旅行中、イタリアフィレンツェで次女とし
      て生まれる。
1837年 17歳 「我に仕えよ!」という神からの啓示を受ける。
1844年 24歳 看護婦として病院で働きたいと言い出す。
1850年 30歳 病院で働くことを切望するようになる。
1853年 33歳 私立の慈善施設の監督に就任し、備品等の調達シス
      テムを作り上げる。
 
■クリミア戦争
1854年 34歳 看護婦団を率いてクリミア戦争のスクタリ野戦病院へ
      出発。はじめて看護の臨床現場に立つ。入院者が
      12,000人以上に増え、パニック状態となる中で看護に
      没頭。       
1855年 35歳 スクタリの病院の死亡率42%に及ぶ。イギリス政府が
      『衛生委員会』を現地に派遣し衛生状況を調査。衛生
      委員会の働きで給水・排水と換気の問題が改善され、
      死亡率が急激に下がる。
1856年 36歳 クリミア戦争が終結し、看護婦団帰国を始める。本国
      で民衆から熱狂的に迎えられる陰で、スクタリの野戦
      病院の状況分析を始める。
 
■病床から
1857年 37歳 スクタリの死亡率の高さが衛生状態の悪さに原因があ
      ったことを理解。この頃から虚脱状態になり、その後
      10年以上病床に伏すことになる。
1859年 39歳 陸軍の衛生状態やイギリスの病院における統計処理の
      改善に努力する。
1860年 40歳 主婦達に呼びかけた『看護覚え書』が出版され、ベス
      トセラーとなる。ロンドンにナイチンゲール基金によ
      るナイチンゲール看護学校が設立。イギリス統計学会
      の会員に選ばれ、国際統計会議の運営に関与。
1861年 41歳 インドの衛生改善を指導。
 
■晩年
1870年 50歳 この頃からようやく体調を回復し、看護婦のリーダー
      養成を始める。
1887年 67歳 英国看護協会の設立。
1907年 87歳 女性としては初めて、メリット勲章を授与される。
1910年 90歳 死去。
 

スクタリ野戦病院の真実

スクタリの彼女の病院で亡くなる兵士のあまりの多さについて、ナイチンゲールは、兵士が極度の栄養失調にかかり、かつ風雨にさらされ続けて疲労困憊したすえ、手遅れとなって野戦病院に送られてくるためであると信じていました。そして、軍司令部の無能さや非情さ、物資の補給を滞らせる政府や軍当局、病院管理者を激しく批判します。
 
戦後になって、このことを実証する作業を統計学者ウィリアム・ファーと共同で開始した彼女は、25,000人の兵士のうちの18,000人を死なせた主な原因が、戦傷や兵士の疲労困憊によるよりも兵舎病院の過密さと不衛生な状況が病気を蔓延させたことにあったという結論を得て愕然(がくぜん)とするのです。
 
病院の衛生管理の初歩的な事項の注意を怠った責任は、誰でもない、ナイチンゲール自身にあったのです。クリミアから帰還した彼女が、国民的支持や賞賛の陰で、しばらくのあいだひっそりと沈黙を守った裏には、虚脱状態に陥るほどの衝撃と屈辱があったのです。
 

真実の公開」への闘いと統計学

ナイチンゲールは、「異常な死亡率の要因」という真実をできるだけ多くの人々に知らせることで再び同じ過ちが繰り返されるのを防ごうと決心します。そして、女王や政治家を巻き込んだ隠ぺい工作に対して「真実の公開」への闘いを挑みます。そうすることで、自らの責任をとろうとしたのです。
 
最近、再びテレビドラマ「白い巨塔」が話題になっていますね。ナイチンゲールのこの姿勢は、医療事故や誤認、事実公開・情報開示、説明責任など、今日の医療界が直面している課題に教訓と大切な示唆を与えているように思います。
 
ナイチンゲールが「真実の公開」への厚い壁を突破するには、客観的なデータに基づく説得力が必要でした。ナイチンゲールが統計学と衛生統計へ並々ならぬ情熱を傾注したのはそのためです。クリミア戦争におけるイギリス陸軍兵士の異常な死亡率の原因を明らかにした『鶏のとさか』と呼ばれる有名なダイアグラムを完成させます。
 
『鶏のとさか』ダイアグラムを見る
 
それ以降も、いろいろな統計手法を駆使してイギリス陸軍の衛生改革を成し遂げていきます。その業績は、アメリカの南北戦争時にも継承され、ナイチンゲールは米国統計協会の名誉会員に推薦され、統計分野において国際的な栄誉に輝きました。
 
「病人を救うのは、宗教者の愛よりも衛生環境である」と言っているように、看護にロマンチックな精神主義をまじえるような観念論者ではなく、彼女の思想は徹底した経験主義に基づいていました。そして、目的を達成するために、ときにはイギリス上流階級の彼女の私的な人脈をも利用するしたたかな政治家でさえあったのです。そういった意味では、ナイチンゲールの実像は、よく言われる「白衣の天使」には程遠いものだったと言えるでしょう。1910(明治43)年に、90歳の生涯を閉じます。
 
【参考図書】
(1) 『ナイチンゲール 神話と真実』H・スモール著/田中京子・訳/みすず書房/2003年(平成15年)6月発行/四六判・328頁、3000円
 
【注記】
性別による職業の名称の違いはなくすべきとの観点から、男性の「看護士」、女性の「看護婦」という呼び方は、2002年4月に廃止され、「看護師」という呼び方に統一されました。そのことを承知した上で、上記の文章では、あえて当時の呼び方であった「看護婦」という呼び方を使いました。

  2004.02.11 
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