レポート | ・ミス・ビードル号 |
− ミス・ビードル号 −
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旅をすれば、それまで知らずにいた歴史や物語との遭遇があります。ミス・ビードル号とその太平洋横断飛行の物語もその一つです。親戚の結婚式に出席するため、初めて青森県三沢市を訪れたのは今月(2013年11月)上旬のことでした。 鹿児島空港を9時過ぎの JAL機で出発。羽田空港で一時間半の乗継時間を必要としましたが、14時には三沢空港に着きました。また、早割を利用すれば、鹿児島・三沢間を4万円ちょっとで往復できますから、青森もそう遠くないなという実感でした。 西日本に比べたら日入りの早い三沢ですが、それでも夕暮れまでまだ時間があったので、連れて行ってもらったのが、青森県立三沢航空科学館でした。三沢基地に隣接して設置されている三沢大空ひろばの一角にあります。 館内に入ってまず目に飛び込んできたのが、ちょっとずんぐりした赤い色の飛行機でした。スタジオジブリ制作のアニメーション『紅の豚』を思い出しましたが、機体の側面に、白い文字で『 Miss Veedol』とはっきりと書かれています。初めて太平洋無着陸横断飛行を果たした飛行機の復元機でした。 1927年(昭和2年)のリンドバーグによる大西洋横断飛行の成功に刺激されて、翌年、アメリカ・タコマ市の材木商ジョン・ハンフが太平洋無着陸横断飛行に懸賞金を付けたことから、太平洋横断飛行レースが始まりました。 朝日新聞社は、1931年(昭和6年)4月20日、太平洋無着陸横断飛行(本州とカナダのバンクーバーより南の間を飛行)の最初の成功者に、日本人であれば10万円、外国人であれば5万円の懸賞金を出すと発表しました。 当時の日本には、多量のガソリンを積んだ重い飛行機が離陸できる飛行場がありませんでした。そこで、青森県三沢市の淋代(さびしろ)海岸(当時三沢村)が、粘土と砂鉄の混じった固い砂浜であることと、偏西風を利用した最短の飛行コースとなる大圏コースがとれることから、太平洋横断飛行の出発地に選ばれました。 『タコマ市号』『パシフィック号』『クラシナマッジ号』などが、太平洋横断飛行に挑みましたが、いずれも失敗に終わりました。そのつど、淋代の村人たちは無償で、砂浜の滑走路の整備を行なったり宿舎の提供をしたりして、横断飛行が成功するまで挑戦者たちを援助し続けました。 アメリカ人クライド・パングボーン(当時35歳)とヒュー・ハーンドン(当時26歳)の乗ったミス・ビードル号が立川飛行場(東京都立川市)に飛来したのは、1931年(昭和6年)8月6日のことでした。 二人は、世界早まわり一周飛行に挑戦中だったのですが、壕雨のハバロフスクの飛行場でぬかるみに突っ込んでしまい、遅れを増やして世界記録更新は絶望的になっていました。そこで、二人は朝日新聞社が太平洋横断飛行に懸賞金を出ていることを知り日本にやってきたのでした。 しかし、日本への入国許可を取らずに飛来したため、スパイ容疑で警察に拘束されてしまいます。折しも国賓待遇で来日していたリンドバーグとパングボーンが旧知の間柄であったのが幸いして釈放され、横断飛行に挑むことができるようになりました。 ミス・ビードル号は、アメリカ・ベランカ社製の単発5人乗りの旅客機でした。二人は、後部座席と機体底部を燃料タンクに改造して、約 3,600リットル(ドラム缶18本分)の燃料を積み込めるようにしました。 また、飛行中の空気抵抗を減らして燃料の節約をはかるため、離陸後に車輪を切り離して落下させる構造にしました。このようにして長距離飛行に備えたパングボーンとハーンドンは、1931年(昭和6年)10月4日7時1分、淋代海岸を飛び立ちました。 北太平洋の濃霧や雲を避けるため高度4,300mを飛ぶと、寒さが二人を襲ってきましたが、寒さと戦いながら、予定のコースを正確に飛び、アラスカ湾へ向かいました。そして、10月5日の朝7時14分過ぎ、アメリカ合衆国ワシントン州ウェナッチ市に胴体着陸し、北太平洋を無着陸で横断した最初のパイロットになりました。41時間13分間の飛行でした。 パングボーンとハーンドンは1931年のハーモン・トロフィー(その年に最も優れた飛行を行ったパイロットに贈られる賞)を受賞した。 ミス・ビードル号が淋代海岸を飛び立つ際に地元住民から機内食用として差し入れされたものの中に、りんご紅玉20個があったそうです。ミス・ビードル号が着陸したウェナッチもまたりんごの産地であり、その縁もあってウェナッチ市と三沢市は姉妹都市となり、いろいろな交流を通して親交が深められてきているそうです。 【備考】 このレポートは、青森県立三沢航空科学館内に展示されていたパネル(当時の朝日新聞の記事など)を参考にして書きました。 下記のページが参考になります。 ■ 旅行記 ・青森県立三沢航空科学館 − 青森県三沢市 |
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