レポート | ・万葉集の歌、南限の地 〜 黒之瀬戸 |
− 万葉集の歌、南限の地 〜 黒之瀬戸 −
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ご承知の通り、万葉集は、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集で、天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人たちが詠んだ歌が4500首以上も集められています。 その編纂に関わったとされるのが大伴家持(おおとものやかもち、 718〜785年)です。本メルマの著者の通勤する職場がある鹿児島県薩摩川内市には『万葉の散歩道』と名づけられた大伴家持ゆかりの散策路があります。散策路沿いに家持の像が建てられ、万葉集から15首が選定され、歌碑が設置されています。 歌人であると同時に律令制下の高級官吏であった大伴家持は、藤原仲麻呂暗殺計画に加担した疑いで、46歳の天平宝字8年( 764年)に薩摩守(さつまのかみ、薩摩国府の長官)への転任という報復人事を受け、少なくとも一年余り在任しました。 現在の鹿児島県は当時、薩摩半島の薩摩国と大隅半島の大隅国の2つに分けて統治され、現在の薩摩川内市に薩摩国の国府が置かれていました。そうしたゆかりで、『万葉の散歩道』が整備されました。 *** 大伴家持とともに、父の大伴旅人(おおとものたびと、665〜731年)も薩摩にゆかりの人でした。隼人(はやと、古代日本において薩摩・大隅に居住した人々)は、大宝元年( 701年)の大宝律令の制定によって、隼人司(はやとし)の下に組み入れられ宮門警護や歌舞などの儀式の任に就きますが、養老4年( 720年)九州南部に住む隼人が大和朝廷に対して大規模な反乱を起こしました。 このとき、征隼人持節大将軍に任命され、反乱の鎮圧にあたるため薩摩に赴いたのが大伴旅人でした。 鹿児島県の西北部の長島町と阿久根市の間に『黒之瀬戸(くろのせと)』という海峡があります。八代海と東シナ海を繋ぐ海峡で、幅500m、長さ4km程と狭いため、大変流れが速く干潮時には大渦(渦潮)が発生し、古来より、薩摩の隼人の瀬戸として広く知られていました。この黒之瀬戸が万葉集の歌の南限の地で、2首の歌碑が建てられています。 大伴旅人は、征隼人持節大将軍として在官中ここを訪れたのでしょう、遠く吉野(現在の奈良県南部一帯)に思いを馳せ、望郷の念を詠みました。 帥大伴卿、吉野の離宮を遥かに思ひて作る歌 隼人(はやひと)の瀬戸の巌(いはほ)も 鮎走る吉野の滝になほしかずけり (巻6−960) ”隼人の”は、薩摩の枕詞(まくらことば)で、薩摩の瀬戸の巨岩も鮎の走る吉野の激流には及ばないこよと、吉野を偲んだのでした。この歌碑は、黒之瀬戸を見下ろす『うずしおパーク』と長島町立田尻小学校の校庭に建てられています。もう一首は、長田王(ながたおう、年未詳〜 737年)の歌です。 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす 遠くも我は今日見つるかも (巻3−248) 時の天皇の命令で九州に下った長田王がこの地に赴き、薩摩の瀬戸を、私は今日はるか彼方に眺めるていることだなあと、遠い地に来たものだという深い感慨を歌に詠みました。黒之瀬戸を見下ろす小高い丘の上に万葉歌碑として歌碑が建てられており、『うずしおパーク』にも歌碑が建てられています。 *** 黒之瀬戸には昭和21年(1946年)から県営フェリーが就航していましたが、昭和49年(1974年)に黒之瀬戸大橋が架けられると県営フェリーは廃止されました。橋は有料道路でしたが、平成2年(1990年)に建設費用の回収が完了したのにともない無料開放となりました。 風光明媚な景観に加え、黒之瀬戸近辺には、地元でとれた新鮮な業界類を食することのできる食事処が点在し、道の駅には、豊かな自然に恵まれた長島の農産物、海産物の生鮮品や加工品などが並び、毎日多くの人で賑わっています。 ちなみに、万葉集の歌の北限の地は、宮城県涌谷(わくや)町で、大伴家持によって、天皇の御代が繁栄するしるしとして、東国の陸奥山に黄金の花が咲きだしたことであるよ、という歌が詠まれています。 天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あすま)なる 陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く (巻18−4097)
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