レポート  ・画家 田中一村   
− 画家・田中一村 −
日本のゴーギャンと呼ばれる画家・田中一村(たなか いっそん、1908〜1977年)。ゴーギャンがパリを捨てて南海の島タヒチ島で強烈に生き切ったように、一村もまた東京に決別して、奄美大島の、誰にも知られぬ孤独と貧窮の中で新しい画境を切り開いた画家でした。
 
それまで日本画とは無縁と思われた南国の奄美の景観を、黒を基調とした大胆な構図と繊細なタッチで描き出した一村の作品は、人々に強烈な印象を与えて止みません。嬉しいことに、一村のいくつかの作品をアップロードしているサイトがありますので、先ず作品を覗いてみましょう。
 
・孤高の日本画家 田中一村
 → http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/tanaka/tanaka.htm
 

本名、田中孝。明治41年(1908年)、栃木県栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれ、四歳のとき一家そろって東京に移り住みます。彫刻家の父・田中彌吉(号、稲村)の血をひき、幼少の頃から大人顔負けの画才を現わし『神童』と呼ばれた早熟の天才は、7歳の時に児童画展で文部大臣賞を受賞し、10代の頃には、蕪村や青木木米などを擬した南画(水墨画)を自在に描き得たといわれます。
 
父は、自慢の息子に、『米邨(べいそん)』という号を与え、18歳のとき、その名が『大正15年版全国美術家名鑑』に登録されます。
 
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に日本画壇の主流を歩んだ東山魁夷や橋本明治らがいましたが、自らと父の発病により、わずが3ヵ月で退学し、その後は南画を描いて一家の生計を立てます。
 
23歳の時、南画を離れて自らの心のままに『蕗の薹(ふきのとう)とメダカの図』と題する日本画を描きますが、後援者にはまったく受け入れられませんでした。この絵はいま、田中一村記念美術館(鹿児島県奄美パーク内)に展示されていて、次の手紙文が添えられています。
 
『私は二十三歳のとき、自分の将来いくべき画道をはっきり自覚しその本道と信じる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、その当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトに よって家族病人を養ふことになりました。その時の作品の一つが今 川村家にあり、水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹の図です。今はこの絵ほめる人も大部ありますが、その時折角心に芽ばえた真実の絵の芽を涙をのんで自らふみにじりました。・・・・・』    
中島義貞氏宛手紙より(昭和34年3月4日付け)
 
昭和13年(1938年)、東京から千葉へ移住。その間、襖絵や天井画を描いていたようです。39歳の昭和22年(1947年)、『白い花』が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選し、初めて一村と名乗りますが、川端と意見が合わずに翌年には絶縁し、青龍社から離れていきました。その後、院展や日展などの公募展へ出品するも、ことごとく落選を繰り返します。
 
『見せるために描くのではなく、自分の良心を納得させるために描く・・・』その後は、中央画壇と一線を画し、独立独歩の道を歩みます。この頃の作品は、田中一村記念美術館に『千葉寺シリーズ』として展示されていますが、自分の良心を納得させる作品をいまだ描き切っていない一村にとって満足できるものではなかったようです。
 
そんな中で、47歳の昭和30年(1955年)の夏、四国・九州の旅に出ます。鹿児島県の屋久島と奄美大島の間に、トカラ列島と言う島々が点在しています。紀州から四国を経て九州へ向かった一村は、湯布院から高千穂、さらに南下し桜島、そして、種子島、屋久島、トカラ列島まで船を乗り継ぎました。
 
この四国・九州へのスケッチ旅行が転機となり、一村へ奄美への移住を決意させたようです。3年後の昭和33年(1958年)12月13日早朝、一村は奄美大島に第一歩をしるします。一村50歳の冬のことでした。
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奄美行きを決定させたのは、九州の旅で得た南国の魅力もきっかけになりましたが、まだ自分の作品を描いていないという焦燥も一つの理由だったようです。美術学校の同期たちは、戦後の画壇で華々しい活躍をみせていたのです。
 
生活のために描く絵から、本道を信じる絵を描くため、自らを新しい環境に追いやって再出発をきしました。そして、それまでの作風から一転して造形的なユニークな絵が描き出されることになります。
 
奄美に来た一村は、大島紬の摺(す)り込み染色工として生計を立てます。紬工場で何年間か働き、蓄えができたら絵に打ち込むという生活を繰り返しました。そのため、一村が満足に絵を描けたのは、奄美生活20年間のうち実質9年間足らずだったと言われます。
 
したがって、奄美生活の中で色紙等は数多く描きましたが、本画といわれる作品は、わずか30点に満たないそうです。
 
奄美に来た当初は、将来東京で個展を開いて作品を世に問うのだといった気負いもありましたが、高度成長期の物価高は、資金面での計画をくるわし、また健康面でも不調が重なり、制作が思うように進みませんでした。
 
自分の良き理解者であった姉・喜美子との死別の後は、作品を発表して世に問うといった気力も段々薄らいで行ったようです。昭和52年(1977年)9月11日、一人で夕食を支度中、心不全で倒れ、69歳の生涯を閉じました。
 
奄美での作品は、全く未発表のまま残されましたが、没7年後の昭和59年(1984年)12月9日、NHK教育テレビ『日曜美術館』で『黒潮の画譜−異端の画家田中一村』 と題して、一村の画業が全国に紹介され大きな反響を呼び、翌年1月、同番組としては、異例の再放送となりました。
 
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ステテコに地下足袋、こうもり傘と画材を入れたふろしき包みを持って紬工場に通う、無口で奇人・変人に映る一村。地元の人たちの記憶に残っている日本画家・田中一村の姿は、画家だと言われても信じがたいような風だったそうです。晩年の一村とその生活の様子を写した写真を田辺周一さんのサイトで見ることができますので、覗かせてもらいましょう。
 
・素顔の一村 
  → http://www6.ocn.ne.jp/~hitotono/sugao1.htm
 
一村の絵に光が当たり始めたのは、没2年後のことでした。没後も一村を忘れずにいる人たちが奄美にいたのでした。それらの人たちが持ち寄ったお金で、一村のささやかな遺作展が開かれました。名瀬市は、人口わずか5万人の地方都市。事前の宣伝も出来なかったので、何人の人が訪れてくれるかわかりませんでしたが、蓋を開けてみると、3日間の会期中に、3000人を超す観客が押し寄せて、狭い会場は押すな押すなの大混雑だったそうです。
 
昭和52年(1977年)9月11日、
 心不全で倒れ、69歳の生涯を閉じる。
昭和54年(1979年)
 名瀬市中央公民館で、『田中一村画伯遺作展』が開かれ、市民に
 大きな感動と驚きを与える。
昭和59年(1984年)
 NHK教育テレビ『日曜美術館』で『黒潮の画譜−異端の画家田 中一村』放映。
昭和60年(1985年)
 南日本新聞に、中野惇夫記者が『アダンの画帖』を連載。
昭和63年(1988年)
 笠利町歴史民俗史料館にて『田中一村展』開催。これを機に毎年 命日の9月11日に、一村忌が終焉の地にて行われる。
平成5年(1993年)
 中学・高校の教科書に『エビの素描』と『クワズイモ』が採用さ
 れる。一村終焉の家屋が名瀬市有屋の市有地に移転保存される。 平成13年(2001年)
 奄美大島笠利町に『田中一村記念美術館』(館長:宮崎緑氏)が
 オープン。
平成17年(2005年)
 映画『アダン』(出演:榎木孝明、古手川祐子ほか)が封切。
 
下記の旅行記があります。
 ◆旅行記 ・田中一村を訪ねて − 鹿児島県奄美大島
 
【参考サイト】
このレポートは、田中一村記念美術館や一村終焉の家の案内板の説明文の他、下記のサイトなどを参考にして書きました。
 
[1]田中一村:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[2]田中一村−黒潮の奄美で開花した天才画家
 → http://www.touka.com/hou/onsen/
[3]田辺サイト トップ
 → http://www6.ocn.ne.jp/~hitotono/index.html
[4]白翔画廊さんの下記ページでは、『一村論』とともに、『白い花』などの、奄美へ渡る前の作品も含めて、一村の作品を見ることができます。
 → http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/tanakaisson.htm
 

 2006.08.23 
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