レポート  ・保科正之 〜 『天地明察』を読んで   
 
− 保科正之 〜 『天地明察』を読んで −
今年(2012年)は、太陽に月がすっぽりおさまる『金環日食』(5月21日)、金星が太陽の前を通過する『太陽面通過』(6月6日)、金星が月に隠される『金星食』(8月14日)など、天文現象が目白押しの天文ゴールデンイヤーだといわれます。そんな年にぴったりの映画が9月15日に全国公開されます。
 
監督が『おくりびと』の滝田洋二郎、主演が岡田准一、宮崎あおい、中井貴一、市川亀治郎らが出演する『天地明察』(てんちめいさつ)という映画です。太陽や星を測り、22年の歳月をかけて日本独自の暦法を完成させた実在の人物、安井算哲(のちの渋川春海)の生涯を描いた物語です。
 
その同名の原作本(角川書店、2010年11月初版発行)を読みました。冲方 丁(うぶかた とう)著で、第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞を受賞し、第 143回直木賞の候補となった時代小説です。
 
戦乱から泰平へと移行しつつあった江戸初期。 800年前から使われていた『宣明暦』が誤差を生じ、蝕(月蝕・日蝕)の予測をことごとく外します。凶作は天候によってもたらされ、天候は天意である。その天意の結果、地に飢民が生ずるのは、人がどうこうできるものではない、”仕方なく慎む”べきものだ。
 
果たしてそうなのだろか、飢饉によって飢餓(きが)を生み、あまつさえ一揆叛乱を生じさせるのは、為政者たちの無為無策によるのではないだろうか。そして、”人が正しき術理をもって、天を知り、天意を知り、もって天下のご政道となす・・・ それが叶えられぬものか。”第四代将軍徳川家綱の輔佐役(大政参与)、保科正之は、一介の御城碁打ちに、改歴という大事業を託します。安井算哲、21歳のときでした。
 
水戸光圀や江戸幕府大老・酒井忠清、算術の天才で和算の開祖・関孝和、異端の神道家・山崎闇斎など、多彩な登場人物たちとの交際のなかで、改暦に取り組むストーリーはなかなか面白かったですが、”軍政から民生への転換”を目指す保科正之の政策と、その仕上げとして改暦事業が位置づけられているのが印象的でした。
 
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『保科正之の大願たる民生への大転換は、正之の個人的な理想という側面ばかりではなく、江戸幕府が自ら握った”覇権”という名の怪物によって滅ばぬための唯一の道が”泰平”であった』とあります。この文章は、自らの権限を縮小あるいは捨ててまでも民生のための政治改革を断行したブータン国王・雷龍王四世や『人君の心得』を示した米沢藩主・上杉鷹山を思い起こさせます。
 
なのに、保科正之の功績が世に広く伝えれられていないのは、『後世、あらゆる幕政のおおもとが正之の建議に依っていると知られれば、将軍の御政道の権威を低めてしまう』との考えによって、自らの幕政建議書を家老に命じてすべて焼却させたためだともいわれます。
 
保科 正之(ほしな まさゆき、1611年〜1673年)
 
二代将軍徳川秀忠の御落胤(実子)で、三代将軍家光の異母弟。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、会津藩初代藩主。四代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。
 
明暦元年(1655年)、会津藩において、社倉制(飢饉時に貧農・窮民を救済のためめ米などを貯蔵しておく制度)を創設。幕政においては、末期養子(家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと)の禁を緩和し、各藩の絶家を減らした。大名証人制度(大名およびその重臣から人質をとって江戸に住まわせた制度)の廃止を政策として打ち出した。先君への殉死(主君などの死を追って臣下などが死ぬこと)の禁止を幕府の制度とした。
 
江戸市民の生活用水を確保するため玉川上水を開削。明暦3年(1657年)の明暦の大火の際、”米の持ち出し自由”として、米俵を運び出させて被災した庶民へ支給。火災後の食糧不足による物価高騰を抑えるため、参勤していた諸藩大名を国元に帰らせ、江戸出府を延期した。
 
火災時に民衆が退路しやすいように主要道の道幅を拡幅した。火除け空き地として、上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。実用的な意味があまりないとして、無駄な出費は避けるため、火災後の江戸城天守の再建を見送った。
 
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御落胤として生まれた正之は、信濃高遠藩主・保科正光に預けられ、正光の子として養育されました。会津藩藩主になると、幕府より松平姓を名乗ることを勧められましたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通しました。第三代藩主代・正容になってようやく松平姓を使用します。
 
第三代将軍家光は、謹直で有能なこの異母弟をことのほか可愛がったといわれます。慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、『宗家を頼みおく』と言い残しました。
 
これに感銘した正之は、寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定め、第一条に、『会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない』と記しました。
 
それから 200年後の幕末、第九代会津藩主松平容保(かたもり)は、家老の西郷頼母など家臣らが強く辞退を進言したにもかかわらず京都守護職に就任し、最後まで保科正之の遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、幕府と運命を共にすることになります。
  

  2012.04.18
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