レポート | ・林芙美子 |
− 林芙美子 −
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桜島の古里温泉の『ふるさと観光ホテル』が今年(2012年)9月末に閉鎖しました。近年の桜島の活発な降灰などで利用客が落ち込み、売り上げが激減していたということです。海辺に面した、浴衣を着て混浴で入る龍神露天風呂で有名なホテルでした。残念なことです。龍神露天風呂だけでも引き継がれて欲しいものです。 そして、古里温泉といえば、林芙美子。芙美子は、母・林キクが兄の経営する古里温泉を手伝っているとき知り合った泊り客(行商人)との間にできた子で、6歳まで古里温泉で過ごしました。芙美子の本籍地もこの古里温泉になっています。 ふるさと観光ホテルのすぐ近くにある、海を見下ろす古里公園には芙美子像とともに文学碑が建てられており、芙美子がよく口ずさんでいたという『花の命はみじかくて苦しきことのみ多かりき』の詩が刻まれています。 自らの放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説『放浪記』は、”でんぐり返り”のある森光子さんの舞台作品としても有名でした。森さんの上演は生涯通算で2017回を数えたといわれます。その森光子さんが、11月10日、肺炎による心不全のため東京都内の病院で死去しました。92歳でした。そんな折、『放浪記』を読み返し、晩年の名作『浮雲』を読でみました。 *** 林芙美子は、明治36年(1903)年、現在の福岡県北九州市門司区小森江で出生しますが、実父・宮田麻太郎の認知を得られず、母の兄の姪として入籍します。その後、両親は別れ、母が行商人であった沢井喜三郎と結婚しますが、養父となった沢井が事業に失敗。11歳の芙美子は一人鹿児島の親戚(母キクの実家)に預けられ、山下尋常小学校に転入します。 しかし、鹿児島の縁者に快く受け入れてもらえなかった芙美子は、学校にもほとんど通わないまま両親のもとに帰り、養父と母と三人で行商を営みながら各地を転々としまわります。そして、芙美子13歳のとき広島県の尾道市に移り住みました。 尾道市立高等女学校へ進学し、恩師である今井篤三郎の指導により、次第に文学の道を志すようになります。女学校を卒業すると、恋人であった岡野軍一を追って上京し同棲。岡野が明治大学を卒業するのを待ちながら、カフェーの女給、銭湯の番台、封筒書き、セルロイド工場の女工、事務員など多くの職を転々とします。 しかし、岡野家の反対に遭い、岡野軍一は因島の実家へ帰ってしまいました。一人、東京に残った芙美子は、貧困にあえぎ、職を転々としながらも、作家としての活動を続けていきました。ベストセラーとなった『放浪記』は、大都会の底辺で辛酸をなめながら生きた19歳から23歳までの多感な5年間の生活を独白というスタイルで書き綴ったものです。 幾度の恋愛を経たのち、大正15年(1926年)、23歳のとき、画家の手塚緑敏と結婚。昭和16年(1941年)、東京新宿中井に自宅を建て、数々の代表作を発表。昭和24年(1949年)に『晩菊』で日本女流文学者賞を受賞。同年、『浮雲』の連載を開始。 日中戦争から太平洋戦争にかけて、多くの文化人が戦意高揚のために報道班員として駆り出されました。芙美子も例に漏れず、中国や南方へ従軍しました。その時の経験や屋久島での取材を基に書け上げられたのが晩年の集大成作品『浮雲』です。 『浮雲』 林芙美子・著 新潮文庫(新潮社)/昭和28年4月発行/平成23年11月第85刷 第二次大戦下、義弟との不倫な関係から逃れるように農林省の林業調査部署のタイピストに志願して仏領インドシナ(現・ベトナム、カンボジア、ラオス)に渡った幸田ゆき子は、妻ある農林研究員の富岡と出会う。一見冷酷な富岡は女を引きつける男だった。本国の戦況をよそに豊かな南国で共有した時間は、二人にとって生涯忘れえぬ蜜の味だった。 そして、終戦。戦後帰国後もなお互いを忘れることができない男と女が不幸な恋愛に身を落していく物語。焦土と化した東京の非情な現実に翻弄され、ボロ布のように疲れ果てた男と女は、ついに雨の屋久島に行き着くのだが・・・。 − この無精神状態のなかに、ゆき子と古いきずなを続けるのはたまらない気持だった。そのくせ、その古いきずなは、切れようとして切れもしないで、富岡の生活の中にかびのように養い込んでしまっていた。−(本文より) 男と女の孤独、そして切るに切れない男と女の腐れ縁という恋愛の本質が濃密に描き上げられています。昭和28年(1953年)に発行され、平成23年(2011年)に第85刷を数えていますから、長い間読み継がれてきている代表的な恋愛小説の名著といえるでしょう。男と女のその時折の心理描写を配するように記していく小説スタイルであり、作者自身にそれなりの経験がないことには、こうは書けないかも知れません。 *** 林芙美子についてネット検索してみると、いろいろな記事が見つかります。林芙美子の恋愛について書いた本には例えば、『林芙美子・恋の作家道』(清水英子、文芸社、2007年)、『石の花―林芙美子の真実』( 太田治子、 筑摩書房、2008年)、『林芙美子 巴里の恋』(林芙美子・今川英子、中央公論新社、2004年)、『ナニカアル』(桐野夏生、新潮社、2010年)などがあるようです。 桐野夏生さんの『ナニカアル』は、林芙美子の従軍の史実を明るみに出し、軍政下における芙美子の闇の恋を描いた小説ですが、この本の刊行記念として行われた、作家・関川夏央さんと桐野さんの対談記事が新潮社のホームページに載っていて、なかなか興味深いです。 彼女みたいに元気、というか無道徳な人は、日本近代文学中の特異点だったが、それでいて高レベルの近代文学を作った(関川)。『浮雲』のような素晴らしい小説を書く人が、何故こんなに評判悪いんだろうと興味を持ったんです(桐野)。作家間での評判も悪く、銀座で立ち小便をしていただの何だのと誹謗中傷された(桐野)。 「私は古里を持たない」と『放浪記』の一番最初に書きましたね。あれは、故郷が鹿児島にも北九州にもないという意味だけではなくて、生き方のモラルという「古里」が生まれながらにないってことだと思う。性のモラルも含めて(関川)。 円地文子も、「林さんは実物より写真の方がずいぶんよく、実際の人物より小説の方がずっとよい。死と一緒にわるいものはなくなって、よい所だけ残ることになった」というようなことを書いています(桐野)。 寝る間も惜しんで執筆を続ける流行作家・林芙美子でしたが、昭和26年(1951年)、いくつもの連載を抱えたまま、心臓麻痺のため急逝。波乱に満ちた47年の人生に幕を閉じました。 上述のように、奔放に生きた林芙美子でしたが、『告別式には、普段着姿の老若男女が押し寄せ、一般焼香者として彼女の冥福を祈りました。それは、市井に生きる人々を描き続けた芙美子の最後を飾るにふさわしい象徴的な光景でした。』とかごしま近代文学館の林芙美子コーナーに説明があります。 【参考にしたサイト】 (1)林芙美子の主な年譜 (2)桐野夏生『ナニカアル』書評 (3)『放浪記』は青空文庫で読めます。 上記サイトに加えて、かごしま近代文学館の林芙美子コーナーの説明文を参考にしました。 【備考】つぎの旅行記があります。 (1)古里温泉と桜島 − 鹿児島県鹿児島市 (2)尾道の風景 − 広島県尾道市 |
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