レポート  ・濱崎太平次と川崎正蔵   
 
− 濱崎太平次と川崎正蔵
豪商として一時代を極めた濱崎太平次の凋落後はその事業の跡形さえ消え去ってしまったのは残念ですが、濱崎太平次翁の志は、ヤマキ(濱崎家の屋号)長崎支店の店員として翁の薫陶を受け、のちに川崎重工業(株)を創立した川崎正蔵、あるいは翁が私心を捨ててその派遣に尽力した薩摩藩英国留学生(のちの大阪商工会義所初代会頭・五代友厚、初代文部大臣・森有礼、アメリカのぶどう王・長沢鼎ら)の活躍に引き継がれていったのだと考えたいです。
 
第八代濱崎太平次には、一男一女がありましたが、男子は24歳の時、父の死後3年目に鹿児島で病死して、太平次の弟彌兵衛の長男が後を継ぎましたが、次第に家運が衰えて、明治43年に断絶してしまいました。大正4年、濱崎助次という人がこれを嘆き、濱崎家を再興して、墓所等の管理をし、翁の事蹟蒐集に努めました。
 
その濱崎助次という人によって昭和6年に発行された『幕末の豪商濱崎太平次翁之略傳』という冊子があります。その冊子に次のようにあります(新潟県鍵冨氏とは、新潟三大財閥の一つと称された鍵冨三作財閥のことだと思われます)(1)
 
”彼(濱崎太平次)が使用した人たちの中には、後に巨万の財を積んだものも少なくなかったが、彼らもまた多くは財界の激変によって前後凋落した。独(ひと)り川崎造船所の創立者である川崎正蔵氏及び新潟県鍵冨氏の後(のち)は、今なお大いに栄えつつある。”
 
川崎重工業(株)は、川崎正蔵が1878年(明治11年)年に東京・築地に川崎築地造船所を開設したのに始まります。川崎正蔵は、1837年(天保8年)、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。
 
17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て、濱崎太平次の下で貿易商の修行を積み、27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。
 
その後1869年(明治2年)に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、1873年(明治6年)には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させました。
 
この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになりました。
 
1878年(明治11年)、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出しました(2)
 
冊子『幕末の豪商濱崎太平次翁之略傳』に、『太平次翁と川崎正蔵氏との関係』と題して、次のようにあります。
 
”翁(濱崎太平次)は、この時代(店員時代)より、川崎氏の尋常一様の店員ではない、将来何事かを成し遂げる有望な少年とにらみ、常に人に語って『川崎はよく書物も読むし、大人のごとき思慮もある、そして万事が堅実で、若いのに似合わず、丸山(長崎の遊郭)へも通わない一徹者であるから、遅かれ早かれ一旗あげるだろう』としきりに賞讃していた。”
 
 下記の旅行記が参考になります。
  ・濱崎太平次ゆかりの地を訪ねて − 鹿児島県指宿市
 
【参考文献およびサイト】
(1)幕末の豪商濱崎太平次翁之略傳(第一版昭和6年6月濱崎助次発行、第五版平成7年12月濱崎國武発行)
(2)川崎重工の歴史(川崎重工 ホームページ)

 

  2014.02.12
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