レポート  ・幸村の薩摩落ち伝説   
 
− 幸村の薩摩落ち伝説 −
衣川の戦いで自害して果てたはずの源義経が実は蒙古帝国を打ち建てたジンギスカンであったという、いわゆる義経=ジンギスカン説は、学会からは明確に否定されるような伝説でありながら、江戸時代から現在に至るまでその真偽のほどが脈々と論議されてきたというのは、まさしく判官贔屓(はんがんびいき)のなせる技といえるでしょう。似たような話しの一つに、真田幸村の薩摩落ち伝説があります。
 
慶長20年(1615年)6月3日、大阪夏の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い込みながら、武運尽きて安井神社(大阪市天王寺区)の境内で真田幸村は討取られてしまいます。
 
ところが夏の陣の後、『花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて退きも退きたり加護島(鹿児島)へ』というわらべ唄が京で流行します。わらべ唄に対応するかのように、鹿児島県南九州市頴娃(えい)町雪丸地区には、薩摩へ逃れた真田幸村らがそこに住んだという伝説があり、『伝・真田幸村の墓』なるものがあるのです。
 
 伝・真田幸村の墓 − 鹿児島県南九州市
    → http://washimo-web.jp/Trip/Denyukimura/denyukimura.htm
 
幸村の薩摩落ちの話しが書かれた書物としてつぎのようなものがあるそうです。元禄年間に成立し、昌幸・幸村・幸泰(通称大助)の真田家3代の興亡を主題とした講談『真田三代記』、肥前松浦藩主・松浦静山が書いた随筆集『甲子夜話(かっしやわ)続篇』、真田信之を祖とする松代真田家が江戸時代に自家の歴史をまとめた『先公実録』、『薩摩風土記』、『薩藩旧記』、『旧頴娃町の郷土史』など。
 
例えば、旧頴娃町の郷土史によれば、『大阪夏の陣のあと、薩摩に豊臣秀頼をはじめとして、真田幸村、木村重成など1000余人の大阪残党が逃げてきたという(鹿児島外史所説)。真田幸村は、入薩後、氏名を芦塚左衛門と改め、当初谷山(現在の鹿児島市谷山)に潜伏していたが、その後、頴娃郷淵別府(一説には雪丸集落)に移り住んだという。
 
そして、摺木の百姓娘との間に子どもが生まれたが、この子をあとに真江田某と呼び、苗字帯刀が許された。大川に現存する真江田家はその子孫であるといわれ、真江田は真田をもじったもの、また、雪丸(ゆきまる)も幸村(ゆきむら)をもじったものだといわれる。雪丸集落に幸村の墓といわれる「六文銭」の紋所のついた墓石があるということである。』
 
現在雪丸集落にある『伝・真田幸村の墓』には、「六文銭」の紋所などはついていません。いつ、どのような経緯でつくられたのかはわかりませんし、伝説説はあくまでもフィクションということでしょうが、興味は尽きません。
 
【参考にしたサイト】
(1)さつま人国誌「真田幸村の薩摩落ち伝説」 | 373news.com
   → http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=282
(2)伝・真田幸村の墓(南九州市商工会頴娃支所のホームページ)
   → http://ei.kashoren.or.jp/files/ei/yukimaru/album01.html
(3)幸村薩摩落ち伝説 − 真田三代の部屋
   → http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html
(4)真田信繁 - Wikipedia
(5)豊臣秀頼 - Wikipedia

  2016.02.24
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