レポート | ・山車(だし)の由来 |
− 山車(だし)の由来 −
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夏。これからいよいよ祭りの時季になります。神社の祭礼のときに使われる出し物全般を山車(だし)といいますが、山車といえば、やはり読んで字のごとく、山に車をつけたものを引き歩く、いわゆる曳山(ひきやま、あるいは単にヤマと呼ぶ)を思い浮かべますね。 山車は、曳山のほか、山鉾、山笠、御車、屋台(主に長野県、岐阜県飛騨地方など中部地方)、地車(だんじり・だんぢり、主に関西地方)などと、地方によって様々な呼び方があります。 『だし』という読み方については、神殿や境内の外に出す出し物であるからだとする説と、山車の中心の鉾(ほこ)の先に髯籠(ひげこ)を出していたからだとする説があるようです。 では、なぜ『山』なのでしょうか? 山車の由来をさかのぼれば、山岳信仰にたどり着きます。古来より、神は山岳や山頂の岩や木を依り代(よりしろ)として天から降臨するという考えがあり、山上や山麓に斎場を設けて祭礼が行われました。 村落が発達して、やがて平野部においても祭礼が行われるようになると、山岳を模したものを造って、降臨を仰ぐ依り代としました。その一つが山(やま)、あるいは、造り山・飾り山と呼ばれるものでした[1]。 天長10年( 833年)の仁明天皇の大嘗会(だいじょうさい)で、悠紀(ゆき)と主基(すき)の両国司の列立すべき所を標示する飾り物を、木綿・榊・日月などを装飾して山形に作って、これを斎場から大嘗宮(だいじょうきゅう)へ引いたといわれます。『標山』(しめやま・しるしのやま・ひょうのやま)と呼ばれるこの飾りものには、移動神座のような役割があって、山車の原型であるといわれています。 標山のつぎに出現したのが京都祇園の作山(つくりやま)だったそうです[2]。 長徳4年( 998年)、無骨という猿楽法師が祭の余興に作山をこしらえて引いたところ、藤原道長の圧迫を受けたそうです。大嘗祭の標山を模したことが、公の尊厳を害するものと考えたからだと思われます。しかし、それでも祇園の祭が民衆の祭として盛んになるに従い、祇園山は今日のように隆盛を見るに至りました。 すなわち、曳山(ヤマ)は、当初の神の依り代としての意義を減じて、余興のための作り物としての意義を増大し、それに従って種々の趣向が加えられ、形もはたらきも種々様々に変化して今日に至っています。 【用語】 ・髯籠(ひげこ)=竹や針金を編んで、編み残しの端をひげのように延ばしたかご。 ・依り代(よりしろ)=神霊が現れるときに宿ると考えられているもの。 ・新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)=天皇が、その年にとれた穀物(米)を神々に供え、自身も食する宮中儀式。 ・大嘗祭(だいじょうさい)=天皇の即位後最初の、一代一度の新嘗祭のこと。 ・大嘗宮(だいじょうきゅう)=大嘗祭を行うために新設された宮殿。 ・猿楽法師(さるがくほうし)=中世、猿楽(軽業(かるわざ)・奇術や滑稽な物まねなどの演芸)を業とした僧形の芸人。 【参考にしたサイト】 [1]山車:フリー百科事典『ウィキペディア』 [2]曳山のはなし 下記のページで、唐津曳山をご覧頂けます。 ◆旅行記 ・唐津曳山を訪ねて − 佐賀県唐津市 |
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2007.06.20 | ||||
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