レポート  ・眼鏡橋と葛 〜 秋月記より   
 
− 眼鏡橋と葛 〜 秋月記より −
今年(2014年)のNHK大河ドラマは『軍師官兵衛』です。秀吉の九州征伐の功労者として豊前12万石を賜り、のちに長男の黒田長政が福岡藩を興すことになりますが、実は、官兵衛の血統は福岡藩本藩では断絶し、孫の黒田長興(ながおき)が初代藩主を務めた秋月(あきづき)藩でつながれていきます。
 
5万石という小藩で支藩、しかも三方を山に囲まれた山あいで財政基盤が弱く、農民は常に風・水・虫害に悩まされ、藩は財政難にあえぎ続けます。そんななかで秋月藩を助けたのが葛(くず)でした。
 
そこで、葉室麟(はむろ りん)著の小説『秋月記』(角川書店、2009年1月発行)にでてくる『眼鏡橋と葛』の物語が面白かったので、それをご紹介しようと思い立ちました。まず、物語の背景になっている秋月藩の歴史の概要についてです。
 
1.秋月藩の歴史
 
(1)秋月藩の興り

 
南北には福岡県の中央部にあって、東西にはその東端部に位置する朝倉市の秋月地区は、『筑前の小京都』と呼ばれる観光地で、町全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
 
鎌倉時代以来、秋月氏によってその根拠地とされてきましたが、秋月氏は豊臣秀吉の九州征伐によって日向高鍋に移封されます。江戸時代に入り黒田長政が関ヶ原の戦功により筑前一国52万3千石を与えられ福岡藩を興しますが、長政はその死に際して、三男の長興(ながおき)に5万石を分知するよう遺言しました。
 
この遺言に基づき元和9年(1623年)、福岡藩を継いだ兄・忠之(ただゆき)から当時14歳の長興に分知されたのが秋月5万石でした。長興が大名として認められ、秋月藩が独立した藩と公認されるためには、藩主が江戸に出て将軍に拝謁し、所領安堵の御朱印を拝領することが必要でした。
 
そこで、秋月では長興の江戸参府を計画しますが、福岡藩本藩からこれに待ったがかかります。これは、忠之が、弟・長興を家来と考え、秋月5万石を福岡藩領の一部と解釈しようとするものでした。しかし、長興は福岡藩の監視の目をかすめて江戸参府を断行して3代将軍徳川家光に謁見、寛永11年(1634年)に秋月領5万石の朱印状を賜ることができました。
 
無城大名で福岡藩の支藩ながら、城主格が与えらた独立藩として秋月藩が誕生しましたが、以来秋月藩を吸収しようともくろむ福岡藩本藩とそれに抵抗する秋月藩の軋轢(あつれき)が続くことになります。
 
(2)中興の祖 〜 黒田長舒(ながのぶ)
 
秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅(ながかた)が子女がいないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。このとき、8代藩主として迎えられたのが、日向高鍋藩7代藩主・秋月種茂の次男の長舒(ながのぶ)でした(いわば、秋月氏の里帰りということになります)。
 
叔父の上杉鷹山をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田官兵衛・吉良上野介・妻方の山内一豊など多彩な血筋を持ち、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されての秋月藩藩主継承でした。
 
長舒は、叔父の鷹山を範として諸般の振興を図り、後に秋月藩中興の祖と讃えられました。学問を奨励して藩校稽古館を開き、領内の治水や水運に力をそそぎ、殖産興業として、葛・水苔・茶・桑・楮・櫨・木蝋・製紙・養蚕・びん付油などの特産品の開発製造を奨励しました。
 
特に、山野に自生する寒根葛(かんねかずら)の根を水でさらしてつくる葛(くず)は、歴代の高木久助の努力によって秋月藩の将軍家献上物となり、江戸でも高い評価を得、秋月を代表する特産品として全国に広まりました。現在でも、秋月葛は奈良の吉野葛と並んで品質の良さに定評があります。
 
(3)長崎警備と眼鏡橋
 
7代藩主長堅が若死にし、秋月藩が断絶の危機を迎えたとき、福岡藩本藩は、秋月藩を本藩に吸収しようと動きますが、秋月藩は幕府老中に働きかけて、福岡藩に代って長崎警備を務めるという条件で藩の継続にこぎつけました。
 
その頃、野鳥川に架かる木の橋は、筑前秋月と筑後・豊前を結ぶ橋ながら、人馬の往来によって損傷も著しく、大洪水時にすぐ流される始末でした。8代藩主長舒は長崎の眼鏡橋を見て、それと同じ石橋に架け直したいと熱望しました。その頃は藩財政も厳しくなっていましたが、長舒は架橋建設を決断しました。
 
長崎から石工を招いて石橋は完成しますが、不幸にも竣工を目前にして橋は崩壊し、病床にあった長舒は目鏡橋の完成を見ることなく43歳で逝去しました。しかし、崩壊から3年後の文化7年(1810年)9代藩主長韶の時、悲願の目鏡橋が野鳥川に美しいアーチを描いてその姿を現しました。
 
それから 200余年後の現在もこの眼鏡橋は秋月のランドマーク的存在として健在で、観光名所の一つになっています。
 
(4)財政難と政変『織部崩れ』
 
名君といわれた8代藩主・黒田長舒の学問奨励や殖産興業の進歩的な政治は、一方で藩に財政負担を強いるものでした。長崎警備や眼鏡橋の建設も莫大な財政支出を伴ないました。藩庫が底をつくと、長韶の信任を得ていた家老の宮崎織部は、家臣の上米(事実上の給与一部召し上げ)と富裕な商人からの献金や借り入れで対処します。
 
文化8年(1810年)、間小四郎(あいだこしろう)は6人の同志と語らい、家老宮崎織部たちに不正ありと、福岡藩本藩に訴え出ました。秋月で訴えても家老たちに握りつぶされることを予想しての本藩への訴え出でした。
 
訴えの内容は、筆頭家老宮崎織部や財用方家老渡辺帯刀とその同腹の者は、若い藩主を侮蔑して藩政を牛耳り、政事に不公平多く、藩士の窮乏をよそに、商人からの賄賂で贅沢をし女色に溺れて性根宜しからず、また公金を使って豪遊している、というものでした。
 
出訴を受けた本藩は家老を秋月に派遣して、事実関係を調査のうえ、宮崎、渡辺の両家老を罷免して福岡沖合の島に流罪、その他十数人の者が処分されました。この事件は『織部崩れ』と呼ばれ、この政変によって秋月藩の政治は中枢が崩壊した状態になりました。
 
(5)本藩の介入と財政再建
 
そこで、福岡藩本藩は、秋月御用請持の役名で沢木七郎大夫を秋月に派遣しました。着任した七郎大夫が秋月藩の借財の状況を調べたところ、負債総額は銀3800貫余(現在のお金で約63億円)にも達しており、このうちの8割が大坂の商人から借り入れしたものでした。
 
沢木に代わって秋月御用請持として本藩から着任した井手勘七は、当時秋月藩の郡奉行の職にあった間小四郎の人物と力量を信頼して、二人で秋月藩の財政再建に乗り出します。福岡藩本藩から15年間に総額15万俵の米を支援してもらって主に江戸藩邸の費用にあてることにしました。
 
そして、秋月藩士の所務渡米(今でいえば給与)を数年間知行禄高の半分以下にして借財の返済にあてることにし、文政4年(1821年)には、勘七と小四郎が大坂へのぼり、債権者の商人と折衝して借金の12年間の返済猶予の約束を取り付けました。
 
(6)間小四郎(あいだこしろう)
 
文化12年(1815年)に郡奉行に就任した間小四郎はのちに町奉行も兼任し、さらに中老職に昇り用人役と郡・町奉行も兼任しました。井手勘七が福岡に帰った後も秋月の藩政を主導しましたが、文政12年(1829年)隠居を願い出て許され、余楽斎と号して悠々自適の生活に入りました。
 
しかし、余楽斎間は隠居後も依然として藩政への影響力を持ち続け、重臣たちの間には、福岡藩の威光を背にして井手勘七と二人で藩政を独善的に仕切ってきた間小四郎に対する反感があったといわれます。
 
天保元年(1830年)、藩主長韶が退隠して土佐藩の山内家から養子に迎えられた長元が十代藩主を襲封します。弘化2年(1845年)、余楽斎は突然呼び出されて『御主君の思し召しに叶わず』との理由で、博多湾の玄界島に流罪を申し渡されました。
 
嘉永5年(1852年)に流罪を赦免されて嘉麻郡桑野村に蟄居を命じられ、淋しい晩年を過ごし、3年後の安政2年、同所において死没しました。享年69歳でした。
 
(7)小説『秋月記』
 
『専横を極める家老・宮崎織部への不満が高まっていたなかで、間小四郎は、志を同じくする仲間の藩士たちとともに糾弾に立ち上がり、本藩・福岡藩の援助を得てその排除に成功する。しかし、秋月藩の政変を利用して秋月藩を吸収しようという本藩の策謀の意図が初めからあったことに気づく小四郎。
 
いつしか仲間との絆も揺らぎ始めて、ひとり孤立していく小四郎。外に敵がいなくなれば、今度は内に敵ができる。宮崎家老のように捨て石になれるだろろうか。』
 
葉室さんは、秋月藩の史実をつなぎ合わせながら、一般的には秋月藩の藩政で専横を極めた悪人として語り伝えられている宮崎織部と間小四郎という二人の人物を、清濁を共に飲み込み悪役になり切ることによって秋月藩の独立を守り抜こうとした英雄だったという新しい解釈のもとに小説『秋月記』を書いています。
 
小説には、眼鏡橋や秋月葛の高木久助のほか、秋月藩藩医で日本で初めて種痘を行った緒方春朔、稽古館教授の原古処とその娘で女流漢詩人として傑出した才能を発揮した原采蘋などが登場します。秋月観光の際には一読をお薦めしたい一冊です。
 
2. 眼鏡橋と葛 〜 秋月記より
 
第8代藩主黒田長舒(ながのぶ)が眼鏡橋の架橋建設を決断すると、藩の依頼を受けて長崎から石工(いしく)たちが秋月入りしました。そのなかに、吉次という若い石工がいました。吉次は泊まっている村の娘・いとと恋仲になりますが、こともあろうに、家老の宮崎織部(おりべ)がいとを見初め、いとに宮崎屋敷へ奉公に上がるよう強要するのでした。
 
文化4年(1807年)10月、眼鏡橋が完成。長さ14.6m、幅4.6m、水面からの高さ4m。ところが不幸なことに、渡り初めを目前に橋は崩落してしまいます。織部は橋崩落の責任を石工たちに負わせ、石工たちを放免してやるかわりに、いとを女中奉公に差し出させます。
 
いとは吉次を救いたい一心で女中奉公にでることを承知します。吉次たちは、翌年2月、長崎へ帰ることを許されますが、いとが宮崎屋敷へ上がったことを知ってがく然としながらも、どうすることもできないまま長崎へ帰って行く吉次でした。
 
その年の秋、再び吉次ら長崎の石工たちがやってきて橋の再建が始まり、崩壊から3年後の文化7年(1810年)、悲願の目鏡橋が野鳥川に美しいアーチを描いてその姿を現しました。その渡り初めのとき、思いがけないことが起きます。
 
藩主が渡り初めようとしたまさにそのとき、吉次が家老宮崎織部の前に走り出て、橋が無事完成したのだから、いとを返して欲しいと願い出たのです。織部が、真っ赤な顔をして、不埒者が、場所をわきまえぬかとどなると、吉次は織部の脇に控えていた三弥によって切り捨てられます。
 
吉次が死んだ後、いとは宮崎屋敷から実家へ戻されますが、村人は、織部の妾になったといういとに冷たい視線を向けます。身の置き場のないいとは、田畑の仕事よりも村人と顔を合わせないですむ山仕事を進んでするようになりました。
 
間小四郎(あいだこしろう)は、藩内の視察に赴いていたある日、百姓姿のいとと出会い、郡奉行様に見て頂きたいものがございますと、家に連れて行かれます。納屋のそばに置かれた大きな樽の中をのぞくと、たっぷりと張られた水の底に清々しい雪のようなものが見えます。
 
『これは葛か?』
『はい、そうです』
 
いとは誇らしげに答えます。山仕事をしている時、寒根葛(かんねかずら)を晒(さら)せば葛ができると聞いた、しかし、いくら晒しても、純白の葛はできなかった。そして、数年の試行錯誤を経て、寒気の中、冷たい水をいとわずにかき回して晒せば葛ができることがわかってきた、といとはいいます。
 
葛のつくり方がわかってきた頃、久助(きゅうすけ)がいとの葛つくりを手伝うようになりました。久助はいとより五歳年下。山仕事に来ていて崖から滑り落ちて足をくじいたところを、たまたま通りかかったいとに助けられて、いとと話しをするようになりました。
 
『それで、わたしにどうせよ、というのだ』
『お奉行様に、この葛を皆が作れるようにしていただきたいのです』
 
葛つくりは、極寒の季節の水を素手でかきまぜる仕事。手は凍えて赤くなりしびれます。そんな苦労がたたっていとは労咳(ろうがい)にかかっていました。それが悪化してやがて静かに息を引き取るのでした。
 
小四郎が郡奉行になって2年が経った文化14年、秋月藩に思いがけない難題が持ち込まれます。幕府から京の中宮御所造立、仙洞御所修復を命じられたのです。それにかかる費用の8500両を福岡藩本藩が立て替えるかわりに、秋月藩では藩士の俸禄を半減することになりました。
 
しかし、半知とされてから3年が経つ頃になると藩士は疲弊しきり、いよいよ藩内が立ち行かなくなりました。だからといって、藩士の俸禄を元に戻せば、今後の借財返済がとても賄えません。
 
そこで、郡奉行に加え町奉行を兼務し御用人本役を仰せつけられ、家老に次ぐ藩の重役になっていた間小四郎は、福岡藩本藩から秋月藩御用請持として新たに赴任してきた井手勘七に付き添って大阪に出向き、借財返済の12年間停止を申し込むことになりました。
 
しかし、利に敏い大阪商人はそれ相応の見返りがないことには、借財返済の12年間停止などのむはずがありません。
 
秋月藩には見返りに出すものが何もありません。ただ一つあるのは『本藩の保証』でした。”12年間の借財返済停止の保証を本藩が受ければ、秋月藩はもはや丸抱えと同じ、いずれ藩領を本藩に戻すことになる。”それこそが、井手勘七の狙いだったのです。
 
しかし、間小四郎は大阪商人の寄合の席上、土壇場で『これを食していただきたい』と奥の手を出します。廊下に控えていた一人の町人が部屋に入って頭を下げると、数人の女中たちが白い羊羹のようなものを皿に載せて配って回ります。皿には、砂糖と黄粉、黒蜜が添えてありました。
 
『これは葛やな』
 
葛を持ってきた男は久助でした。実は、大阪に出た久助は、晒葛(さらしくず)を売っている店をすべて訪ね歩き、紀州保田村の晒葛を売っている店を探し当てて、保田村で2年間晒葛つくりの修業をしていたのでした。
 
『なかなかのもんや』
『これは、売れるぞ』
『この葛は作った者の心がこもってますな。』
 
こうして、小四郎は、借財返済の12年間停止を取り付けたのでした。
 
下記のページが参考になります。
 ◆旅行記 ・秋月を訪ねて − 福岡県朝倉市 
  
【参考サイト】
本レポートは、主として、福岡県朝倉市の公式ホームページ『ふるさと人物誌』の下記のページを参考にして書きました。
(1)ふるさと人物誌7  秋月藩中興の祖「黒田長舒」
(2)ふるさと人物誌17 秋月藩初代藩主「黒田長興」
(3)ふるさと人物誌31 秋月藩の財政再建に奔走した「間小四郎」
   

  2014.01.12
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