レポート  正岡子規と夏目漱石   
 
正岡子規と夏目漱石
9月19日は正岡子規の忌日でした。子規の忌日は『糸瓜忌』(へちまき)と言われ、秋の季語になっています。絶筆の三句『糸瓜咲て痰のつまりし佛かな』『痰一斗糸瓜の水も間に合はず』『をとゝひのへちまの水も取らざりき』に糸瓜(へちま)が詠み込まれていることによります。

松山と江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)と生まれた場所は違いますが、共に慶応3年生まれの正岡子規(1867年〜1902年)と夏目漱石(1867年〜1916年)。二人の親交が深かったことはよく知られています。
 
§1 愚陀仏庵(ぐだぶつあん)
 
1884年(明治17年)に共に東京大学予備門に入学。幼い頃から落語が好きだった子規と漱石は寄席の話題で意気投合。二人が懇意になるきっかけだったそうです。1890年(明治23年)に共に東京帝国大学文科大学に入学します。漱石は英文科、子規は哲学科でした。
 
漱石は、1893年(明治26年)に英文科を卒業し、東京高等師範学校の英語嘱託となり、1895年(明治28年)に愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)の英語教師として赴任します。
 
一方、子規は1892年(明治25年)に大学を退学し、日本新聞社入社。1895年(明治28年)日清戦争従軍記者として大連・金州へ派遣、帰国の途中に喀血し、療養のため松山に帰郷。
 
実家や親せきには行かず、漱石の下宿先であった愚陀仏庵(ぐだぶつあん)に52日間に渡って寄寓します。この期間に子規の新派俳句は興ったといわれますし、またこの子規との同居は、漱石ののちの文学に影響を与えたと言われます。
 
この時の様子が、夏目漱石・著『正岡子規』(初出:「ホトトギス」1908(明治41)年9月1日号)に書かれていますので、以下に青空文庫から抜粋転載させて頂きます。
 
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正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへやって来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、ここに居るのだという。
 
僕が承知もしないうちに、当人一人できめて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人がしきりに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。
 
僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句をやる門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。
 
僕は本を読む事もどうすることも出来ん。もっとも当時はあまり本を読む方でも無かったが、とにかく自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。其から大将は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。
 
それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。
 
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一年後の1896年(明治29年)、漱石は第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師として熊本に赴任。一方、同年に子規は脊椎カリエスに罹っていることが判明、1902年(明治35年)9月19日に満34歳で死去。、夏目漱石・著『正岡子規』に子規の性格や二人の親交の様子が書かれていて興味深いので、再び抜粋転載させて頂きます。
 
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非常に好き嫌いのあった人で、めったに人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。
 
こちらがむやみに自分を立てようとしたらとても円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。
 
策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人がよかったのだな。今正岡が元気でいたら、余程二人の関係は違うたろうと思う。もっとも其他、半分は性質が似たところもあったし、又半分は趣味の合っていた処もあったろう。
 
も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのでもあろう。忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以って任じて居る。ところが僕も寄席の事を知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大いに近よって来た。
  
子規は明治28年最後の帰省の際、当時松山中学校の英語の教師であった夏目漱石の居に52日を過し地方の人を指導した。「ホトトギス」発刊の機会ともなり又名作「坊ちゃん」の中にも出て来る建物である。
愚陀仏庵(子規堂(愛媛県松山市)で撮影)−
漱石寓居(愚陀仏庵)二階 子規が寄寓する様になって病後の友をいたわり自分の書斎を二階のこの部屋に移したという。
愚陀仏庵(子規堂(愛媛県松山市)で撮影)−
 
§2 子規の絵
 
満34歳の若さで亡くなった正岡子規は、死を迎えるまでの約7年間を結核を患って病床で過ごしました。寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆等の執筆活動を続け、病床を訪れる後進の指導をし続けました。
 
子規が、病いに臥せつつ病床で書いた『病牀六尺』は、少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した人生記録として今尚読まれ続けています。青空文庫で読むことができますので冒頭部分を以下に転載させてもらいます。
 
〜 病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。
 
苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢(はか)なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪(しゃく)にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。(以上、正岡子規・著『病牀六尺』の冒頭より) 〜
 
そんな病床生活の自分を描いた『病床図画賛』という子規の絵が残されています。実物は松山市立子規記念博物館に所蔵されていますが、今年(2020年)の2月に訪ねた子規堂(愛媛県松山市)に複製が展示してあって写真を撮ることができました。
 
2つの俳句、『湯たんぽに足のとどかぬふとんかな』(四方太)、『画箋紙に鼻水にじむ寒さかな』(鳴雪)が書かれています。四方太は坂本四方太、鳴雪は内藤鳴雪で、どちらも子規の門弟です。
− 病床図画賛(子規堂(愛媛県松山市)で撮影)− 
 
子規の絵について夏目漱石が書いた『子規の画』というとても短い短編があります。漱石は、子規から、東菊(あずまぎく)を一輪花瓶(いちりんざし)に挿した簡単な図柄の絵をもらいました。『子規の画』はその絵を取り上げて子規の絵について書いた短い随筆です。再び、青空文庫から抜粋転載させてもらいます。
 
〜 壁に懸(か)けて眺めて見るといかにも淋(さび)しい感じがする。(中略)東菊によって代表された子規の画は、拙(まず)くてかつ真面目(まじめ)である。(中略)拙の一字はどうしても免(まぬか)れがたい。
 
子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年(えいねん)彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉(とら)え得た試(ためし)がない。また彼の拙に惚(ほ)れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。
 
彼の歿後(ぼつご)ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中(うち)に、確にこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。
 
ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償(つぐない)としたかった。(以上、夏目漱石・著『子規の画』より抜粋転載) 〜
 
つまり、漱石は、正岡子規の文学は何につけ『巧』であった(たくみであった)と述べ、もっと『拙』で良い(へたで良い)から、のびのびとしていて欲しかったと書いているわけです。子規への思いがこもった、心に響く漱石のエッセイです。
 
【参考にしたサイト】
(1)正岡子規 - Wikipedia
(2)夏目漱石 - Wikipedia
(3)夏目漱石・著『正岡子規』(青空文庫)
   → https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1751_6496.html
(4)夏目漱石・著『子規の画』(青空文庫)
   → https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/795_43522.html
 


  2020.09.08
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