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いつまでも読み継がれて欲しい本 −『銀の匙』
中勘助(なか かんすけ)著の『銀の匙(さじ)』。この小説は、2003年に岩波書店が行った「読者が選んだわたしの好きな岩波文庫100」というフェアで、第1位「こころ」
、第2位 「坊ちゃん」 (以上、夏目漱石)についで、第3位に入った小説です。中勘助が27歳の大正元年(1912)に書き上げ、夏目漱石の推薦によって「東京朝日新聞」に連載された小説で、現在、岩波書店と角川書店から文庫本が出版されています。200ページほどのそう厚くない文庫本です。
古い机の引き出しの中から幼いころ薬を飲むために使った銀の匙が見つかり、その想い出とともに、明治時代中期の幼児期から17才の青春期までを回想する自伝風の小説です。病弱だった主人公は、もっぱら伯母さんに育てられます。伯母さんに連れられてよく行った神田明神の祭礼や小石川に移ってはじめて知った屋敷町、閻魔(えんま)様や大日(だいにち)様の縁日、貞ちゃんと遊んだ少林寺のお寺などの四季折々の風情を歳時記風に描きながら、豊かな感性と深い洞察力で幼少年期の多感な感触が感じ取った真実を美しく精巧なタッチで描ききっていきます。
そして、自我や倫理・価値観の芽生え、伯母さんとの別れ、兄への反抗、恋。幼年期から少年期を経て17才の青年期に至るまでの主人公の成長の物語でもあります。
いくらなまけても一番だと思っていたので勉強しなかった。びりっこは恥ずかしいことくらいは知っているので、はやくそういってくれさえすれば、おさらいもしたし、ずる休みもしなかったのにと主人公は言います。そして、読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題とけ、二題とけるにしたがい、自信もでき、興味も加わって、家へ帰ればいわれぬうちに自分から机をもちだすようになります。
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私は急に知恵がついてなにかひと皮ぬいだように世界が新しく明るくなると同時に、ひよわだったからだがめきめき達者になり、相撲、旗とり、なにをやってもいちばん強い二、三人のなかにはいるようになった。
私はそのころからしかつめらしいおとなの殻(から)をとおして中にかくれてる滑稽(こっけい)な子供を見るようになってたので一般の子供がもってるようなおとなというものに対する特別な敬意は到底もち得なったのである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜『銀の匙』より
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何年か前に生国へ帰った、今は目が不自由になった伯母さんを16才の春に主人公が訪ねて行くくだりとその別れの場面は、涙なくしては読めません。
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私は伯母さんが家にいたじぶんのことを思いだし、きたない針山から一本のもめん針をぬきとってあしたの仕事のために糸を通しておいた。
私たちはお互いに邪魔をしまいとして寝たふりをしてたけども二人ともよく眠らなかった。翌朝まだうす暗いうちにたった私の姿を伯母さんは門のまえにしょんぼりと立っていつまでもいつまでも見送っていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜『銀の匙』より |
中勘助は詩を志しますが、家計を助けるために小説を書き始めただけあって、この小説は、文章と描写がとても美しい。例えば、小学校高学年のある晩に、近所の仲良しのお惠(けい)ちゃんと、ひじかけ窓のところに並んで百日紅(さるすべり)の葉ごしにさす月の光をあびながら、お互いが透きとおるような腕を見せ合う場面があります。
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「こら、こんなにきれいにみえる」
といってお惠(けい)ちゃんのまえへ腕をだした。
「まあ」
そういいながら恋人は袖(そで)をまくって
「あたしだって」
といって見せた。しなやかな腕が蝋石(ろうせき)みたいにみえる。二人はそれを不思議がって二の腕から脛(はぎ)、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜『銀の匙』より |
この小説には、お惠(けい)ちゃんのほかに、二人の女性が登場します。小学校へあがった頃の近所の同じ歳のお国さんと、主人公が17才に達した頃の友人の姉なる女性です。その友人の姉なる女性との無言の別れ。頬(ほお)のようにほのかに赤らみ、顎(あご)のようにふくらかにくびれた水密桃を手のひらにそうっとつつむようにくちびるにあてます。水密桃は女性そのものであり、その描写はより甘美で、官能的ですらあります。
この小説を読んで、まず感じたことは、文章と描写がとても美しいということと、多感な幼少年期をこの本の主人公が過ごしたような環境で過ごせたらどんなにか幸せであろうか、自分の子供たちにはそんな環境を与えてやれなかったなという思いでした。だから、若いお父さん、お母さんたちに是非読んで欲しい。そして、小学校高学年、中学生、高校生の皆さんに読んで欲しい。確かに、この小説に登場する身の回りのこまごましたモノ、近所の様子、日々の暮らしはもうとっくに忘れ去られたものに違いありません。ですから若い人たちには、読んでもその情景が見えてきにくい小説かも知れません。それでも読んで欲しい。中学生になって読み直し、高校生になって読み直し、大人になって読み直してみれば、いつかきっと見えてくると思うのです。この小説は、そのような読み方をされてき、そして今なお、そのような読み方をされている小説のようです。
【備考】
印象に残った何ヶ所かを下記の文庫本より引用されて頂いたことをご了承下さい。
『銀の匙』中勘助・著
角川文庫/1989年(平成元年)5月初版発行/定価\380
(表紙画像を見る)
→ http://www.washimo.jp/BookGuide/BookGuide3.htm
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