コラム  ・枳殻の実   
 
枳殻の実
『枳殻』と書いて『きこく』あるいは『からたち』と読みます。つまり、枳殻の実とは『からたちの実』のことです。晩春に咲いた白色五弁の花は、秋になると芳香のある真ん丸い小さな果実になります。

      寄宿舎の下駄の薄さや枳殻の実 渡

この句は、令和2年10月に薩摩川内市内で開催された合同俳句会で著者が投句した句です。句会には21名が参加。一人二句ずつの投句ですから計42の俳句が投句されました。21名による互選のあと、3人の先生の選です。

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からたちといえば、唱歌『からたちの花』が思い出されます。山田耕筰(こうさく)と北原白秋の交友から生まれた唱歌で、1925年(大正14年)雑誌『女性』に発表されました。
 
          からたちの花
     (作詞/北原白秋、作曲/山田耕筰)

       からたちの花が咲いたよ。
       白い白い花が咲いたよ。
 
       からたちのとげはいたいよ。
       青い青い針のとげだよ。
 
       からたちは畑の垣根よ。
       いつもいつもとほる道だよ。
 
       からたちも秋はみのるよ。
       まろいまろい金のたまだよ。
 
       からたちのそばで泣いたよ。
       みんなみんなやさしかつたよ。
 
       からたちの花が咲いたよ。
       白い白い花が咲いたよ。

とても有名な唱歌ですが、『だれがなぜ、からたちのそばで泣いたのか』『だれがやさしかったのか』。この詩の意味を真に理解するには、山田耕筰著『自伝 若き日の狂詩曲』(中公文庫、1996年)によらなければなりません。

日本初の管弦楽団をつくるなど日本における西洋音楽の普及に努める一方、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動した山田耕筰(1886〜1965年)は、日本の音楽史に燦然と輝く人ですが、少年期・青年期を労働苦学の中に過ごしました。

長期にわたる父の病気で家は貧しく、長兄は家出したまま長く父の家に帰らず、末の弟は、わずか5つで亡くなります。9歳のとき、母のすぐ上の兄の養子に出され、巣鴨にあった自営館という活版学校に入れられます。夜学校のある勤労学校でした。

すりへらした庭下駄のような薄い寄宿舎の弁当では、とても足りようはずもなく、たまらなくなると、活版所の周囲の畑から、季節季節の野菜を手当たり次第にとっては、生のままかじった。秋になると、色づいたからたちの実は、はじめはすっぱくて咽せかえるほどだったが、馴れるとなかなか良いものだった。

工場で職工に足蹴りされたりすると、からたちの垣根まで逃げ出し、人に見せたくない涙をその根方にそそいだ。そうしたとき、畑の小母さんが示してくれる好意は、嬉しくはあったが反ってつらくも感じられた。

9歳から13歳までの足掛け5年にわたる活版所生活は、いろいろな意味から私を錬磨してくれた、むしろ感謝していい時代だった。将来の夢は音楽者と定められたのも、9歳の自営館時代のことだった。

『からたちの、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実』、それは自営館生活における私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となった。と自伝にあります。

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さて、冒頭に挙げた俳句は、唱歌『からたちの花』にまつわる上述のエピソードを思い出して詠んだものでした。『寄宿舎の下駄の薄さ』に、山田耕筰の自営館時代の労働苦学を象徴させたのですが、合同俳句会に参加の皆さんが知るはずもありません。

だから、先生たちの選に選ばれるなんて思っていませんでした。選者の先生たちはそれぞれ『天』『地』『人』の3つを選ばれるので、42の作品のうち9つの句が選ばれるわけです。

二人の先生の選の発表があって、最後が鹿児島の俳句雑誌『火の島』の代表をされている丸山眞先生の発表でした。嬉しいことに、最後の最後に、丸山先生が拾って下さいました。丸山先生の『人』を頂きました。

その賞品として頂いたのが、A5サイズの俳句手帳がゆったりと入るビニール製のハンディポーチでした。クラフト紙のWリングノートと『季寄せを兼ねた俳句手帖』(月刊雑誌『角川俳句』の付録)を入れて持ち歩き、愛用しています。
 
    

  2022.10.14
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