コラム | ・萬造寺斉の望郷歌碑 |
− 萬造寺斉の望郷歌碑 −
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2021年の分化の日(11月3日)は、鹿児島県いちき串木野市の羽島で吟行でした。羽島は1865年に若き薩摩藩士19名を乗せた密航船が出航した港として知られ、2014年に薩摩藩英国留学生記念館が開館しました。吟行のあと句会で、提出句は3句でした。 釣人の魚籠(びく)の重さや冬隣 渡 立冬や軒を寄せ合ふ羽島崎 小春凪海を向きたる望郷碑 最後の句は羽島崎神社に建立されている萬造寺斉の望郷歌碑を詠んだものです。萬造寺斉(まんぞうじひとし、1886年(明治19年)〜1957年(昭和32年))は歌人、小説家、英文学者。現在の鹿児島県いちき串木野市羽島の裕福な地主の家に生まれます。 旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科に入学すると、与謝野鉄幹に師事し、「明星」「スバル」に参加。27歳の頃には、歌人堀口大学に「短編実作者の第一人者」と評される存在になります。 28歳の時、加世田の田を売り払って資金を工面し文芸誌「我等」を創刊するも下宿の火事にあい、書き溜めた原稿を消失するなどして一年もしないうちに廃刊に追い込まれます。 のちに妻となる伸子のいる京都へ活動の場を移し、雑誌「街道」を創刊して再起を図りますが、戦時統制による紙不足でまたもや廃刊。さらにその頃長女が他界、7人いた子の4人に先立たれたことになり、斉の悲しみを深いものにしました。 長女の死は、ふるさと羽島への望郷の思いを掻き立てますが、長年の過労や胸の病が重かったことなどから、妻子のみ羽島へ帰します。羽島へ帰った妻子は農地を耕作していましたが、国の農地解放政策で農地を没収され、斉を深く落胆させました。 以後、病気が快復することはなく、ふるさとへ帰ることは叶いませんでした。病床でふるさとへ思いを馳せながら歌を詠み続け、昭和32年7月、70歳でその生涯を閉じました。 同年11月に文学葬が母校の羽島小学校で行われ、昭和35年(1960年)に佐藤春夫選、新村出揮毫による三首の歌碑が羽島史跡顕彰会によって羽島崎神社に建立されました。 行かまほし悩みいたづき振りすてて南の海辺とおきふるさと ふるさとや海のひびきも遠き世のこだまの如し若き日思へば ふるさとの浜の砂原小石原生きてふたたび踏まむ日なきか 【参考文献】 ・萬造寺斉をあなたは知っていますか(広報いちき串木野 VOL.141 2017.7) |
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