旅行記      ・沖縄(1)− 世界遺産〜首里城
旅した日 2000年12月)
琉球の歴史

【第一尚氏王朝(だいいちしょうしおうちょう)】
 1429年、尚巴志(しょうはし)が三山(当時、島内は北山、中山、南山の3つの勢力に分かれていた)を統一し、琉球王国が成立しました。1470年、尚円が王位に着くまでの約40年間を第一尚氏王朝といいます。中国との外交貿易を安定させたうえで、朝鮮や日本、東南アジアなどとも貿易を始め、異文化が融合した琉球王国の基礎をつくりあげました。
【第二尚氏王朝(だいにしょうしおうちょう)】
 尚巴志亡きあとにクーデターが勃発し、1470年、第一尚氏王朝を倒して尚円王(しょうえんおう)が王位に着きます。1879年(明治12年)に明治政府に首里城を明け渡し、沖縄県が誕生するまでの約400年間を第ニ尚氏王朝といいます。
【島津氏(薩摩藩)との関係】
 @島津氏は、1441年室町幕府の将軍義教から恩賞として琉球国を与えられていました。琉球王朝と島津氏の関係は1592年ごろまでは友好的であったようです。Aしかし1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵要請を契機に関係が悪化し、島津氏は1609年に将軍家康の許しを得て、琉球に侵入しました。B島津氏は、沖縄本当以南は琉球王に下付し、琉球王国は存続することになりましたが、在番奉行をおいて琉球国の政治を監督し、国王以下諸役人の任免権を握り、また薩摩藩に納めるべき租税も、米・砂糖・織布など厳重に規定しました。庶民は、明治に至るまで琉球王府と島津氏の、二重の搾取を受け続けることになるのです。C島津氏は、琉球の名を借りて中国と貿易を行なって利潤を得ました。そのため、中国に対しては、あくまで琉球を独立国とみせかける必要がありました。
【中国皇帝との関係】
 琉球王は、一方で、名目上の主権者である中国皇帝からも琉球国王に封ずるという冊(国王に封ずるという中国皇帝の詔勅(しょうちょく))を受けなければならなかったのです。この使いが冊封使(さっぽうし)です。琉球藩設置の1872年(明治5年)まで23回来琉したと言われています。その接待には多大の費用を要し、名目上にすぎなかったとはいえ、薩摩と中国の日中両属の形をとるという琉球国のまことに悲哀に満ちた現実がありました。

世界遺産・首里城
2000年12月2日、「琉球王国のズスク(城)及び関連遺産群」世界遺遺産に登録されました。
首里城
首里城は、海抜約120mの丘陵上にある平山城形式の二重城郭の城でした。面積は、約62,700m2(18,967坪)です。第一尚氏王朝、第二尚氏王朝を通じて、歴代琉球王国の琉球支配の拠点でした。主な殿舎は、中国皇帝からの冊封使(さっぽうし)の饗宴(きょうえん)の時に使用された中国式の建物である北殿(にしのうどん)。主に薩摩の役人を接待するために使われた書院風の建物である南風殿(はえのうどん)。正面にあるのは王が政務をとった場所である正殿。これらの建造物や楼門、城壁も今次大戦ですべて破壊されましたが、1992年に復帰20周年記念事業として首里城が復元されました。〔世界遺産・国指定重要文化財〕
守礼門(しゅれいもん)
 首里城外第二の防門。三間防楼、屋根入母屋造、本瓦など日本や中国のそれぞれの特長が取り入れられいる。。門の中央に「守礼之邦」の額がある。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味。〔県指定文化財〕
歓会門(かんかいもん)
 首里城の正門。1477年の創建。中国風の城門でわが国では珍しい。別名「あまえ御門(うじょう)」ともいわれる。
奉神殿(ほうしんもん)
 首里城正殿のある御庭に入る最後の門。向って左側は「納殿(なでん)」と呼ばれ、薬草・茶・煙草などが管理されていた。右側は「君誇(きみほこり)」と呼ばれ、城内での儀式などが執り行われていた。
首里城正殿と御庭(うなー)
 御庭(うなー)は、冊封式典や様々な儀式が行われた広場。磚(せん、敷き瓦)というタイル状のものが敷かれている。縞模様は、儀式のとき諸官が位の順に並ぶ目印の役割をもっていたといわれる。
漏刻門(ろうこくもん)
 「漏刻」とは、中国語で「水時計」という意味。駕籠(かご)の使用を許された高官でも国王に敬意を表し、この場所で下乗したことから、別名「かご居(い)せ御門(うじょう)」とも呼ばれた。
瑞泉門(ずいせんもん)
 
「瑞泉」とは、「立派な、めでたい泉」という意味。門の手前にある湧水「龍樋」にちなんで名付けられた。
園比屋武御嶽(そのひやんうたき)
 尚真王1519年に創建された中国風の石門。国王が出御の時、道中の安泰を門奥の神(森)に祈願した拝所。〔世界遺産・国指定重要文化財〕
花笠(はながさ
 沖縄を象徴する赤い花、青い波がデザインされた華やかな笠。祝儀舞踊では、愛が凝縮された女の「心」そのものを表現する
日影台(日時計)付近から歓会門(前方)を望む。右手前は久慶門(きゅうけいもん、主に女性が使用したとされる通用門)。
琉球舞踊について
 沖縄には、海の彼方に神々の住む理想郷(ニライ・カナイ)があるという世界観があったそうです。幸福と豊穰は、ニライ・カナイからもたらされると人々は信じていました。祈りの心、祈りの言葉が、所作となり歌となり、芸能へと発展しました。中国、東南アジア、日本などとの中継貿易を通して、他国の異文化を吸収しつつ独自の美学と感性で王朝文化が育みだされました。その文化の象徴が伝統芸能です。琉球舞踊は、宮廷舞踊ともいわれる古典舞踊、庶民の生活、心情を描いた雑踊り、近代の踊り手によって創られた創作舞踊、各地域で継承されている民俗舞踊の四つに大別することができるそうです。首里王府は、冊封使を歓待するために、芸能の振興に特に力を入れ、古典舞踊は発展したのだそうです。 冊封使の乗る船を、王冠をのせた船ということで御冠船と呼び、もてなしの芸能は御冠船踊りといわれるようになったのだそうです。
琉球舞踊(沖縄都ホテルで)
玉陵(たまうどぅん)〔世界遺産・国指定重要文化財〕
 第二尚氏歴代の墓陵。沖縄独特の破風墓(ハフーバカ)が三基連なっている。
識名園(しきなえん)
 首里城からタクシーで15分くらいのところにある琉球王家最大の別邸。面積約23,265m2。王家一家の保養と外国使臣の接待などに利用された。造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「廻遊式(かいゆうしき)庭園」になっている。廻遊式庭園は、近世に日本の諸大名が競って作った造園形式だが、池に浮かぶ島には、中国風あずまやの六角堂や大小のアーチ橋が配置され、池の周囲を琉球石灰岩で積みまわすなど、琉球独自の工夫が見られる。 今次大戦によって壊滅的な破壊を受けたが、1975年から20年の歳月をかけ今日のような姿に取り戻された。首里城の賑わいに比べ、ひっそりとたたずんでいました。
〔世界遺産・国指定重要文化財〕

【参考資料】本ページを作成するに当たって、下記の資料及びサイトを参考にさせて頂きました。
 (1)首里城公園管理センター「首里城後援パンフレット」(管理センターで頂いたもの)。
 (2)沖縄都ホテル「古都首里の散歩みちガイドマップ」(沖縄都ホテルで頂いたもの)。
 (3)沖縄県「識名園パンフレット」(識名園で頂いたもの)。
 (4)「沖縄の歴史」に関するサイト http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/saikyo/okinawa/rekisi.html
 (5)「琉球舞踊」に関するサイト 
http://www.okinawa-joho.net/dotnet/bunka/bunka-buyo.htm